月曜日, 5月 15, 2006

■新人賞が現代日本文学を救う。

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■新人賞が現代日本文学を救う。

 現代日本文学が停滞、沈滞、地盤沈下の渦中にあることは否定できない。それは、小説などの本が売れないということもあるが、おそらくそれだけではない。停滞、沈滞、地盤沈下の本当の原因は、本の売れ具合とか、若者達の活字離れ等ではない。本は売れなくても、活性化することはできる。要するに文壇や文藝ジャーナリズムに「議論や論争がない」「議論や論争を仕掛ける人がいない」ということが決定的だ、と私は思う。つまり、以下に述べるような「西尾幹二」的存在がいないのである。出版社や編集者の力が強くなりすぎたからだろうか。つまり、作家や評論家達が、出版社や編集者の「パシリ」や「イヌ」に成り下がってしまったからだろうか。おそらくそういうこともあるかもしれない。あるいは、すでに「近代文学は終わり」(柄谷行人)を具現しているだけかもしれない。おそらくいろいろな理由や原因が考えられるだろう。しかし、いずれにしろ、私が、根本的な原因として考えるのは、文壇や文藝ジャーナリズムの世界に、命懸けの文学的議論や文学論争がなくなったことだと思う。

 さて、そこで、その停滞、沈滞、地盤沈下の暗いムードを打ち破る役割を担うのは誰かという問題だが、もうそういう野蛮な役割を既成作家や既成評論家に期待するのは無理であろう。「新しい酒は新しい皮袋に…」である。

 今月は文芸誌の新人賞の季節らしい。というわけで、「文学界」と「群像」に新人賞受賞作が掲載されている。私は、こういう新人作家の受賞作をむ読むのが好きだ。そこには、既成作家や既成評論家にない本質的なものがしばしば発見できるからだ。むろん、あたりはずれは避けられないことだが、既成作家の作品と比べたら「はずれ」の確率はきわめて低い。選考委員の作家先生たちの作品よりも、新人賞受賞作の方がはるかに面白く挑発的なのだ。それは別に皮肉でも逆説でもない。たとえば、どんな作家も、「処女作(デビュー作)を超えられない」と言われるのはそういうことだ。新人賞受賞作や処女作が文学史を形成しているというのが現実である。村上龍は「限りなく透明に近いブルー」を超えられないし、石原慎太郎は「太陽の季節」を超えられない。大江健三郎も「死者の奢り」や「飼育」というような初期作品を超えられないのである。

 さて、「群像」と「文学界」には次のような作品が受賞作として掲載されている。

 まず「群像」から。

●木下古栗「無限のしもべ」(小説当選作)

● 朝比奈あすか「憂鬱なハスビーン」(小説当選作)

● 深津望「煙幕」(小説優秀作)

● 田中弥生「乗離する私ー中村文則ー」(評論優秀作)。

次に「文学界」から。

● 木村紅美「風化する女」(受賞作)

●渋谷ヨシユキ「バードメン」(島田雅彦奨励賞)。

 以上の新人賞受賞作品の中で、深津望「煙幕」(小説優秀作)と渋谷ヨシユキ「バードメン」(島田雅彦奨励賞)は、いわゆる受賞作というより、「次席」と言うべき位置の作品である。奇妙なことに、前者は、評論家の加藤典洋が、後者は作家の島田雅彦が強引に推薦し、「優秀作」や「奨励賞」という形で掲載にこぎつけたスレスレの受賞作ということらしい。つまり多数決では絶対に救い上げられない作品であるが、たまたま加藤典洋や島田雅彦というちょっと強引な評論家や作家の力で、やっと世に出られた作品ということだ。「文学は多数決ではない」という例のいい見本であろう。しかし不思議なものである。私が、これらの新人賞受賞作品を読み比べてみて、もっとも印象深く感じたのは実はこの二作だった。中でも、加藤が、「批評家生命を賭ける」と豪語して推したという深津望の「煙幕」が、抜群に面白く、衝撃的だった。ちなみに日本の近代文学史上で、「文藝評論家」という職業を定着させるという、一種の「文学革命」的役割を果たした小林秀雄のデビュー作「様々なる意匠」(「改造」新人賞優秀作)も、宮本顕治の「敗北の文学」(芥川龍之介論)に次ぐ「次席」だった、ことが思い出される。

 むろん、他の作品も受賞作だからそれなりのレベルを超えていることは間違いない。しかし文学作品としての存在意義というレベルで考えると、いずれも平凡な、それ故に無難な作品と言うことになる。木下古栗「無限のしもべ」(小説当選作)と朝比奈あすか「憂鬱なハスビーン」(小説当選作)は、いずれも、やがて入院することになるような、かなんり深刻な「病的な妄想」の世界を描いているが、これは最近、一種の流行として流布している小説のパターンで、一見新しそうに見えるが、私には二番煎じ参番煎じの印象しか残らない。妄想というけれども、ちっとも怖くないというのが正直な感想で、それは作品の持つ文学作品としての弱さと凡庸さとを意味している。もっとストレートに言えば、作者が凡庸な才能の持ち主なのではないかと想像される、ということだ。そこを見分けるのは、多数決の論理では無理なのだ。

■この小説の「語り手」は誰なのか?

 というわけで、加藤典洋の強引な推薦でようやく掲載されるに至った深津望の「煙幕」という小説について語ろう。この小説が新鮮なのは、小説の中の言葉が生きていることだ。

つまり、話の中身自体は複雑に入りこんでいて曖昧模糊としているにもかかわらず、その言葉だけは、ストーリーなどどうでもいいかのように、こちらにビンビンと伝わってくることである。これは不思議な才能と言うべきだろう。加藤が、

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 ≪選考委員の席ではつい、批評家生命をかけて、推す、などと大見得を切ったが、大見得でもなんでもない、誰が見ても、こみれは当然でしょう、が本心である。
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 と、「大見得を切る」のもうなずけるというものだ。

 私は、何回も読み直したが、その度にますますこの小説の不思議な魅力に取り憑かれる強度が増していくのを感じないわけにはいかなかった。願わくは、小説作品だけではなく、作者自身も、そういう不思議な魅力を持つ、独特の奇怪な才能の持ち主であってほしい、と思う。

 さて、この「煙幕」という小説は、14歳の中学生の「わたし」が、「十五歳になろうとしている少年の、魂の漂流の記録、すなわち『十五少年漂流記』」を書くことを宣言するところから始まる。

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 そこで、わたしはじぶんの十四年戦争の様子を穏やかに振り返ることにしよう。十五歳になろうとしている少年の、魂の漂流の記録、すなわち『十五少年漂流記』が、いま書かれようとしている。(中略)わたしはこの物語をわたし自身に捧げる。じぶん以外の、外側の世界にある事物など信じない。わたしは単に、わたしのためだけに、じぶんへの労いのことばをここに書き残すのである。
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 そして、この小説は、「川端」という学校一の人気者の理科教師と生徒会副会長の美少女「衣川」が、理科教室の奥で密会し、逢引している様子を、「わたし」が偶然に盗み見するという「劇(場面)」から始まる。「わたし」は、この事実(スキャンダル)をネタに、「衣川」をも仲間に巻きこんで、「少女趣味」を隠しつつ熱血教師の仮面をかぶりながら、美少女に色目を使い、彼女を誑かし続け、しかもそれをビデオ撮影していた「正真正銘の天才的な犯罪者」としての「川端」を脅迫し、追い詰め、退職と失踪まで追い詰めていく。

 というと、小説のテーマは、今ごろ流行りの児童買春や児童ポルノ犯罪と言うことになりそうだがそうはならないところに、この小説の不思議な魅力がある。この小説は、書くことや、記録を残す作業についての思索と分析の気録がメインテーマである。

 そして、この小説の大きな謎は、14歳の少年の魂の記録としての「わたしの手記」が、やがて「川端の手記」へと変容し転換していくところにある。おそらく、「川端」という熱血教師は、「わたし」にとっては、「父親」というものを暗示する存在なのである。「わたし」と「父親」の闘争の記録、それがこの小説なのだろう。そしてその闘いは、「わたし」の内部で展開されているのだろう。

 読めば読むほど話の筋が複雑怪奇で、曖昧模糊としていき、ますます分からなっていくが、しかし読み手は、いつのまにかこの小説の世界に巻きこまれていく。そういう不思議な小説だ

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