水曜日, 3月 15, 2006

ネット時代と溶解する資本主義

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■ネット時代と溶解する資本主義

 政治と文学は切っても切れない深い関係にある。むろんそれがどういう関係かは単純には説明できないが、たとえば極端な例では、文学は政治の道具、あるいは政治の手段にすぎない、という考え方もあるだろうし、逆に、文学は政治からは独立し、芸術至上主義的な牙城を守るべきだ、といようような、いわゆる政治からの「文学の自立性」を主題にする考え方もあるだろう。その中間地帯にも様々な「文学と政治」、あるいは「政治と文学」の考え方はあるだろう。いずれにしろ、政治と文学の関係をどう考えるにせよ、政治と文学と言う問題を無視しては、文学も政治も貧困化するばかりだろう。

言い換えれば、最近の文学も政治も、かなり質的にレベルが落ちていると思われるが、その原因は、やはり「政治なき文学」、「文学なき政治」にあると思われる。政治の文学離れ、文学の政治離れである。したがって、私の最近のモットーは、そういう前提を踏まえた上で、「文藝や哲学を知らずして、政治や経済を語るなかれ!」というものだ。

 そこで格好の素材として、先々月もここで触れた元外交官(現在、休職、公判中)の佐藤優も出席している座談会「ネット時代と溶解する資本主義」(「文学界」4月号)を取り上げてみたい。この座談会はライブドア社長で、通称「ホリエモン」と呼ばれている青年実業家の逮捕事件を受けて企画されたものである。出席者は佐藤優の他に東浩紀、鹿島茂、松原隆一郎。いずれも現在の論壇や文壇を代表するような第一線の評論家、思想家である。

小泉政権下ではまことに不思議なことが起きる。とりわけ小泉政権が政治危機に瀕したり、政界に不穏な空気が立ち込めたりすると、途端に政界周辺の空気が一変する事件が起きる。鈴木宗男・佐藤優逮捕事件やエコノミストの植草一秀逮捕事件、あるいは西村真悟逮捕事件なども例外ではないだろう。選挙に惨敗した民主党で、とびきり若い新党首が選出され、政界やマスコミがお祝いムード一色になりつつあったその翌日には、なんとその民主党の若手代議士(落選中)が覚せい剤使用の常習犯ということで逮捕され、お祝いムードは吹っ飛ぶという事件もあった。

つまり小泉政権が政治危機に直面するたびに、それをリカバーするかのように絶好のタイミングで神風が吹くのだ。そしていつのまにか、小泉政権は危機を脱して、あれよあれよというまに長期政権が続いてしまったというわけだ。そして当然のことだが、巷には「国策捜査」とか「陰謀論」という言葉が乱舞する。しかし不思議なことだが、これを、政治評論家の多くは、「小泉総理は好運の人」という説明で片付けようとする。言うまでもなくそんな単純な問題であるはずがない。

 今度の「ホリエモン逮捕事件」は、むしろ、小泉政権をさらに危機に陥れかねない逮捕事件である。この事件をどう読むかは、作家、評論家、あるいは思想家、ジャーナリストにとっても、おそらく一種の試金石であろう。そこで、文芸誌も、「ライブドア事件は果たしてどのような時代の病理を反映しているのか?」というテーマで、専門外のテーマであるにも関わらず、積極的に特集を組んだというわけだ。むろん、他の論壇系の雑誌や新聞の同様の特集よりはるかに面白い。


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 ホリエモンは、なぜ、逮捕されたのか。そもそも、時代の寵児として持て囃され、衆議院選挙にまで立候補し、若者達のアイドルにまでなったホリエモンとは、いったい何者なのか。誰がホリエモンを育て、誰がホリエモンを殺したのか。何のために?

著書『国家の罠』の中で、東京地検特捜部の検事に、「国策捜査は『時代のけじめ』をつけるために必要なんです。」と言われた経験を披露している佐藤優は、次のように分析している。


《四年前の鈴木宗男事件の場合は、政治権力を使って中央の金を地方にばらまくというスタイルーーその象徴として鈴木宗男さんが断罪された。弱者に配慮しすぎていては日本の国が弱くなってしまう、という生き残り本能みたいなものを検察は代弁していたと思います。それプラス政局捜査の側面もあって、この事件をやることによって小泉政権の支持率が上がるという計算も働いた。そうすれば検察組織として、政治に貸しを作ることができますからね。/今回のライブドア事件は、国策捜査ではあるけれども、政局捜査ではありません。この捜査をやることで、小泉さんの権力基盤は強くなりません。市場原理主義、新自由主義的な流れがこれ以上進めば国力が弱くなってしまう、という鈴木宗男事件とは逆の意識が働いて、検察官たちは「これは摘発しないといけない」と考えたのでしょう。》



 佐藤の分析は鋭い。私には、四人の話の中で佐藤の話だけが生きているように感じられる。他の学者達の発言はどちらかと言えば受け売りと引用だけである。佐藤は、検察の捜査が特定の誰かの意図によって操られるという、いわゆる「謀略史観」は否定する。その上で、最近の検察官は、彼等なりに大変な公益観をもっていて、自分達は日本人のもっている集合的無意識を掴み取る能力があるという自負すら持っている、と若い検察官を弁護する。しかし、この検察官の使命感とも言うべき意識は、今、霞ヶ関全体に広がっていて、「五・一五事件」や「二・二六事件」の頃の青年将校の雰囲気を思い起こさせる、とも言う。


《彼らは士気は非常に高いが、見識や経験がどの程度か分からない。けっこう暴力的で、掟破りを平気でやるところがある。やはり秩序が崩れているのかもしれません。(中略)彼らからすれば、堀江みたいなものは本当のエリートではない、と。中堅エリートにすぎないのに、その分を明らかに越えている。その警告もした。二回、三回、警告したのにきかないから、やっちまえ! ということだったのではないか。》



佐藤の話は、最近の検察官の心理分析として非常に興味深い。彼ら若い検察官が、ホリエモンを一種の「掟破り」と見て、国家防衛的見地から危機感を抱いて、逮捕と言う行動に出たとすればそれもうなづける話である。それは、極端に言えば、鹿島茂が、フランスが財政難と赤字債権で苦しんでいた頃、ベルギーの銀行家と組んで、担保の国有財産を目当てに、タダ同然の債権を片っ端から買い集めて、国家をまるごと乗っ取ろうとしたサン・シモンを例に出して、「ホリエモンは、最終的には国家乗っ取りまでイメージしていた可能性はある。」と鋭く分析する話に通じている。

 それに比して、この四人の中で、もっとも文学の世界に近い東浩紀の話が、もっとも保守的で、ステレオタイプな感じがするのは、何故か。たとえば、「今回の堀江騒動で明らかになったのは、ネットやIT業界のコンベンションがいかに未成熟か、ということだと思うんです。」とか、「ネット上の言論の不安定さみたいなものと、堀江氏が依拠すべきモラルをもたなかったということは、密接に関連している。」とか、「ネット上では言論の内容よりも、コミュニケーションそのものが重要視される」とかいう批評は、今ではあまりにも常識的で、凡庸すぎる。「ネット中毒老人」を自称する私(笑)から見てさえも、「古い!」と言わざるをえない。

 そこで、わたしが連想するのは、世界中で読まれているという村上春樹のことである。私は、ホリエモンと村上春樹は意外に近い存在なのではないかと思っている。ホリエモンは、道を踏み外し、失敗した村上春樹ではないのか。